教育って言うでけぇモノに立ち向かっちまいまして

教育関連について書くときはこっちで書きます。

僕たちはもっと世界を知らなければいけない

教育の世界に突っ込む前から大切だと思っていることがある。

それは世界の広さだ。前の記事でも述べたが学校という現場はとてつもなく閉鎖的で世界が狭い。そういった環境の中で外に飛び出す生徒を育てなければいけない。

そのためにはもちろん考える力などの一般的に言えば「生きる力」というものを育てるところに焦点を置くことになる。生きる力を身につけてしまえば、学校を卒業した後に自分の力で将来を切り開いていける。そこを育てきってしまうことができれば教員としての成果は出たと言えるだろう。

しかし、早い段階で選択を迫られることもあるだろう。「物事を始めるには何歳からでも遅くない」という言葉があるが始めるのが早いに越したことはない。早い段階で世界を見るという視点があってもいいではないか。学校という環境に身が合わない生徒だって当然いる。そういった生徒に学校の延長線上である大学を進めても変わらないのではないであろうか。そのために教育には学校外のことを見る力を取り入れていくべきだと考えている。

皆さんは普通の高校について知っていると思うが、海産高校についてどれくらい知っているだろうか?工業高校や商業高校は?専門学校や高専は?学校だけあげても知らないことはたくさんある。そういった学校に通っている生徒はそこでしか学べないことを学ぶわけだ。皆さんだって彼らが学ばなかったことをたくさん学ぶでしょうが

たかが学校選択でも高校の段階で知らない道があることが当然のことなのだ。もし学校という現場が合わなかった生徒に対して第3の道を提示すること。それも素敵なことではないかと思う。決して既存のものに合わせる必要なんてないんだよ。最初は受け入れられなかったYouTuberが受け入れられている現状である以上、これまで通り学校を出なければという考えは全てではない。そのために僕らは世界を知らなければいけないのだ。人生に正しさなんてない。だから僕らは常に可能性を模索できるよういろいろな解答を学ぶ、そしてその先の事を知っていく必要があるのだと思う。だから僕らは世界をもっと勉強しよう。勉強というものは問いの答えを導くためのものじゃない。人生の問いを導き出すものなのだ

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教員の免許制についての見解

今週のTwitterで教員界隈で「静岡県の来年度からの教員採用」に一波乱あった。

 

表記によると中学校の美術・家庭科・技術の実技系の3科目に関しては教員免許を持っていない民間企業経験者でも採用されるとのことだ。

 

静岡県としては、「すこしでも教員のなり手が欲しいこと」「社会人の経験をもった人材を学校現場に取り入れたいこと」が目的でゃないかと思う。今の時代、教員の能力低下・教員の人手不足が加速していると騒がれている以上、何らかの手を打たねばならないと思った故の策である。

 

しかし、自分もこの策にはいささか疑問を覚える。

 

thebigface.hatenablog.com

 この記事でも述べられているが、教員免許とは教員が専門職であるという保証となっている。それゆえ、教員免許がない状態で採用するとは、その専門的な部分を欠如させてしまっているということになる。

また、そういって教員免許という枠を取り払ったところで採用者が変わるのか?と言ったらいまいち理解ができない。だって集まってくるのは「教職には興味あるけど、教員免許取るのはなんか面倒なので楽したいです」って人ではないのだろうか?

ある程度やる気があるのであれば、通信でもなんでもいいので免許を取れると思うのだがいかがだろうか?少なくともいい方向に流れる気が全くしない。

逆に賛成している人たちに聞いてみたいのだが、教員免許を持っている民間企業出身者は信用ならないですか?ここで静岡県が本当にとるべき行動は、「教員免許状の有無を問わない民間企業出身者の採用」ではなく、「教員免許状を持つ民間企業出身者の採用枠の拡張」ではないかと思った。

正直実技科目三科目に関しては大学までで聞きかじった知識だけで教えているのは不安がある。それゆえにプログラミングなどの経験が深かったり、時代の流れに敏感だったりする民間企業出身者を実技科目に採用するのは大大大賛成だ。

閉鎖的な学校空間では社会への対応はむずかしいため、そういった教科はぜひとも民間の力を取り入れてもらいたいと思う。そのため、採用者数を増やすのだ。しかし、教職に就く以上、教職についての責任感と、教育に対する専門性は必須条件になる。だからこその教員免許状である。ここの廃止についてはいまいち理解ができないところだった。

 

 

しかし、今の教員免許制度に不満がないわけではない。大学生活4年間まじめに授業に出ていればもらえるような教員免許に価値はあるのだろうか?と思う。

前述でも述べたが、教員免許制度とは教育の高度な専門性を保証するために体系的な学習と職業観を養うためのもの。しかし、ふたを開けてみれば、大学の授業をまともに受けなくても、出席しているだけで撮れる。挙句、教育大学を見てみれば、教員に興味はないが、いれば資格がとれるのでもらえるものはもらっておこう。というものもたくさん見受けられる。人間性がクズの自分から言わせてもらって申し訳ないが、正直クズ大学生と表現しても差し支えない人間がちらほらと見受けられ、それが実際採用されて教員になっている現状があるのだ。

その学生に、こうどなせんもんせい?たいけいてきながくしゅう?しょくぎょうかん?なんてあるのだろうか?

ただいるだけで取ることができる教員免許制度に意味はあるのだろうか。結局はひとによっての努力次第で、教員免許というものの価値が変わってしまう、今の教員免許制度が決して正しいとは思えない。各自治体で教員採用試験を実施しているが、熟練の教員たちでさえ、1年かけて生徒を見てくのに、1時間にも満たない時間でその人間を把握できるとは思えない。試験をもっと難しくするにしろ、単位条件の難度向上にしろ、学校以外の民間企業へのインターンシップの必須化にしろ、なんらかの対策をとらなければ、教員免許状というものは何の効力もない、馬鹿にされる国家資格でもなんでもない資格に成り下がってしまうと思う。

ついでに10年ごとの往診制度に関しても全く、高い品質の保証にはなっていないものであるといえる。そんな現状がある以上、「教員免許状のいらない教員採用」という意見が出てきても何もおかしいことはないと僕は思ってしまう。

教室という空間は異様な空間なのか、意見を聞きたい

今回はこちらでの更新。こっちのブログの更新土曜日に統一しようかなぁと思ってたりするんだけどどう?

教員をやっていると、「教室の使い方」というものの個性が出てくる。ここで示している「教室」という言葉は、空間としての教室を指している。

 

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